1. 高市早苗衆議院議員は、2001(平成13年)年10月の今、御年40歳。奈良県第1選挙区から選出された衆議院議員(現在3期目)で、自民党(森派)に所属し、
現在、衆議院文部科学委員長の要職にあります。彼女は、2001(平成13)年9月23日付産経新聞の「アピール覧」では、衆議院文部科学委員長、高市早苗40、という肩書で、
小泉改革の経済政策についての、自分の考え方を投稿していました。
タイトルは、『小泉改革は「地価対策」がカギ』というものでした。
早苗代議士は、小泉内閣登場前は、(評判が悪かった)森内閣において、森派の「若手議員」として、「勝手補佐官」のメンバーとなって、さまざまの活動を展開していました。
また1998(平成10)年8月から1999(平成11)年10月までは、小渕恵三内閣(1998年7月31日~2000年4月4日)の下で、通商産業政務次官という要職をこなしていた、
実力派の代議士です。また、日曜日の「サンデーモーニング」や各種の政治討論会にもよく顔を出し、大阪弁で、シャキシャキと本音を語る、喋りのうまい代議士でもあります。
2. 彼女と私との出会いは、今を遡ること11年前。すなわち1990(平成2)年5月21日の郡山ロータリークラブでの例会でした。私が法隆寺に住んでいた頃で、柄にもなく、
ロータリークラブの活動を始めた直後でした。当時の彼女は29歳で、肩書は「日本経済短期大学専任教員」、「(財)松下政経塾 塾員」で、「立法政策研究センター専門研究員」というもの。
26歳でアメリカへ渡り、2年間働き、28歳で日本へ帰って、次のステップへの準備をしている最中でした。
「奈良に、神戸大学の経営学部を卒業して、松下政経塾を卒業し、政治家を目指している若い女性がいる」、
「なかなかのベッピンさんで、『朝から生テレビ』などにもよく出演していて、話は面白い」、
また、「アメリカ初の女性大統領候補者パトリシア・シュローダーの応援をしたいと思い立ったら、矢も楯もたまらず、1人でアメリカへ飛び立ち、アメリカ連邦議会の
コングレッショナル・フェロー(立法調査官)として、シュローダーの事務所で約2年間働いたという経歴の持ち主」、ということでした。
また、彼女の著書としては、『アズ・ア・タックスペイアー』(納税者として)や『アメリカの代議士たち』という本がある、とのことでしたので、すぐに購入して読みました。
ロータリークラブでの「講話」は、約15分程度。彼女の活動のほんのさわりを聞いただけでしたが、松下政経塾卒という肩書と、彼女の行動力、そして『アズ・ア・タックスペイアー』の中で
展開している、彼女の日本人離れした合理的な考え方に魅力を感じた私は、さっそく彼女と名刺を交換し、以後、さまざまな親交がはじまりました。
3. 具体的な接触は、私が彼女を紹介して、大阪弁護士会の研修で講演してもらったものでした。1991(平成3)年1月23日に開催された弁護士会の研修会のテーマは、彼女のアメリカでの
2年間の実体験をもとにした「日米構造協議」問題に鋭く切り込むものでした。弁護士の実務的なテーマで実践的な研修をやるのとは全く異なり、国際的な視点に基づいて、当時の「経済大国」日本と米ソ冷戦終了後、経済不況にあえいでいたアメリカとの、「開戦前夜」、とか「第二の黒船」とかと言われた「日米構造協議」問題を縦横無尽に語ったもので、大いに勉強になりました。
他方、私から彼女へは、『岐路に立つ都市再開発』、『都市づくり弁護士奮闘記』の著書を送り、また当時、私が代表として主催していた、「都市問題研究会」の資料などを送り、
私の都市問題での活動を紹介しました。
以降、毎年の年賀状と暑中見舞いのやりとりなど、お互いの状況報告が続きました。
4. 彼女は、1992(平成4)年7月26日の参議院議員選挙では、自民党の公認問題のもつれもあり、自民党公認のないまま奈良全県区で立候補したものの、落選(次点)してしまいました。
しかし、この時代の政局は、大きく流動していました。1993(平成5)年の夏、政治改革の機運が高まる中、宮沢喜一内閣の不信任という大事件が発生したのです。その結果、小沢一郎、
羽田孜ら多数の議員が自民党を離党し、羽田孜を党首とする「新生党」、武村正義を党首とする「新党さきがけ」が結党されました。さらに、1992(平成4)年5月に細川護煕を党首として
結党された「日本新党」は、「私がソロを弾き始めた。次第にそれが大きなオーケストラになる」と細川党首が語ったとおり、「責任ある変革」を目指して、日本に新党ブームを生み出していました。
そんな中、1993(平成5)年6月18日の宮沢喜一内閣の解散(いわゆる、嘘つき解散)に伴って、1993(平成5)年7月18日に衆議院議員選挙が実施され、自民党は大敗。
戦後、38年間にわたった自民党の一党支配が終わりました。
そして、この選挙で、奈良全県区から高市早苗衆議院議員が誕生しました。32歳の夏、女性代議士としては憲政史上最年少での当選でした。
5. 日本の政治は、1993(平成5)年7月18日の衆議院議員選挙後、大きく変わりました。8月には、細川護煕を首相とする社会党、新生党、公明党、さきがけ、日本新党など、
8党・会派による連立政権が登場し、「生活者の利益優先」の新しい政治体制への移行を宣言しました。国民には、新しい時代の到来への期待がふくらみました。
しかし、残念ながら、「規制緩和」、「地方分権」など、細川連立内閣が掲げた施策は容易に進まなかったばかりか、突然の「国民福祉税」構想の発表に対する反発や、細川総理の政治資金をめぐる個人的なスキャンダルの判明などのため、1994(平成6)年4月25日、突如、細川総理は政権を投げ出してしまいます。
その後、1994(平成6)年4月28日には、羽田孜新生党党首を総理とした内閣が成立しますが、社会党などは、既に連立を離脱。政権基盤の脆弱な羽田内閣は、
1994(平成6)年6月25日に内閣総辞職をします。
そして、1994(平成6)年6月30日に登場したのは、何と、自民党と社会党が手を結び、村山富市社会党委員長を首相とする「自社さきがけ」政権でした。
このように、1994年(平成6)年は、2回も内閣が入れ替わるという「政治の年」でしたが、このような激動の時代に早苗代議士は新米議員として走り回り、
1994(平成6)年4月20日には、柿澤弘治を党首とした「自由党」の結党記者会見の中に、早苗代議士の姿を見ることになります。
6. 政党の「離合集散」、「政界再編」は更に続きます。1994年12月には、新生党、日本新党の他、公明党までが「大合体」して、海部俊樹を党首とする新進党が結党されます。
早苗代議士は、悩みながらも、自由党を解党し、新進党に合流します。
1995(平成7)年1月17日の阪神・淡路大震災の発生。これに対する村山首相の対応、危機管理能力の欠如ぶりには早苗代議士は怒りました。そこで、早苗代議士は、
有志で「村山首相の辞職を求める声明」を作り、村山倒閣運動を展開します。また、起党派の若手議員は1995(平成7)年2月、船田元議員を会長とする「日本の総理の資質を考える会」を
結成し、早苗代議士は、その事務局長をつとめます。
7. 阪神・淡路大震災からの復興まちづくりについて、私たちは1995(平成7)年2月1日、都市問題研究会の名でアピールを発表しました。また私は1995(平成7)年2月10日の
朝日新聞「論壇」に投稿し、「被災地復興は多用なメニューで」と訴えました。そして、この未曽有の被害に対していかに対応していくのか、また借地借家問題をめぐって
罹災借地借家臨時処理法(罹災都市法)をはじめとする日本の都市法体系の不備にどう対処するのかについて、私は弁護士として、早苗代議士は国会議員として、
それぞれ頑張っていこうという手紙をやりとりし、お互いの姿勢を確認し合いました。
8. 1995(平成7)年9月8日には、『高市早苗のぶっとび永田町日記』の出版記念パーティーが大阪で開かれたため、私も出席し、言葉を交わしました。
国会議員としての悩みを含む「本音」を率直に語ったこの本を、私は高く評価しています。
パーティー後すぐに私は、
「現在私は、中2(男)と小5(女)の2人の子供がいますが、2人にこの本をみせて、読んでみろ、きっと参考になるから、
自分の生き方を考えていく上でためになるから、と言って渡しました」
「永田町の慣習に染まることなく、アメリカ仕込みの合理性と松下政経塾での基盤勉強を土台として、1つ1つの政治活動を自分の視点で考え、実践していってもらうことを期待しています」
「1年に1回、とまでいかなくとも、2年に1回は、第2、第3の永田町日記を発表してもらいたいと思います」
などと書いた長文の手紙を送りました。
9. 1996(平成8)年は、新進党の党首を公開選挙で選ぶ運動で、早苗代議士は、羽田孜陣営の事務局次長をつとめるなど、その実力は
次第にアップしていきました。1996(平成8)年9月には、早苗代議士の要請に応じて、次のような推薦の言葉を書かせて頂きました。
推薦の言葉
今の日本は、安保(沖縄基地)・財政危機(消費税)をはじめ行政改革・規制緩和・地方分権など課題山積みです。閉塞状態を打開し元気な
日本にするため、政治家は自分の言葉で率直に(場合によれば反対も覚悟し)本音を語り、また若者に対しては、政治参加の必要性と意義を
訴えるべきです。早苗議員はそれができる不可欠の人材です。ご支援下さい。
そして1996年9月27日の衆議院解散(いわゆる小選挙区解散、第1次橋本龍太郎内閣)に伴い実施された1996(平成8)年10月20日の初の小選挙区制の下での衆議院総選挙で、
彼女は、奈良一区で、2期目の当選をトップ果たしました。
しかし、代議士活動2期目に入った直後の1996年11月、早苗代議士は、「政策上の食い違いが修正不可能になった」、として、突如、新進党を離党し、無所属となります。
そして1996年12月には、多くの批判を浴びながら、自民党に入党します。
この「新進党離党」、「自民党入党」というストーリーは、政党の部外者の私には、もちろんわからず、批判的な目を強くもっていましたが、「悩んだ末の決断」という意味では、
やむを得なかったものと考えています。
1998(平成10)年7月31日に発足した、小渕内閣の下で、早苗代議士は、通商産業政務次官に就任し、数々の実績を残していきます。
10. 2000(平成12)年3月31日には、松下政経塾出身国会議員の会のメンバーが執筆した『21世紀・日本の繁栄譜』の出版記念パーティーが大阪で開かれました。
この本の中で、彼女は、何と、2010年10月、内閣総理大臣に選出された高市早苗を「近未来の自画像」として描きました。「高市内閣」を組閣した高市総理は、政権の方向性としての
5本の柱を次のように示します。
① 「国家の主権と名誉」「国民の生命と財産」を確実に守り抜く政治を実現する
② 「国益」の追及を明確な目標として打ち出す
③ 行き過ぎた結果平等を廃止「機会平等」が保障される社会を創る
④ 国民の「自由と権利」を守ると同時に、「責任と美無」の大切さを訴え、社会秩序を再構築する
⑤ 「私たちの時代の私たちの憲法」を作り上げる
国会議員をはじめ、国民みんなをアッと言わせる壮大な未来像ですが、私は、彼女は日本初の女性の総理大臣候補の有力な1人と真剣に考えています。
11.2000年4月はじめ、小渕総理が昏睡状態となったため、いわゆる「5人組」(青木幹雄官房長官、森喜朗幹事長、亀井静香政調会長、野中広務幹事長代理、村上正邦参院議員会長)の
協議で、森喜朗を次期総裁に推すことを決定します。そして、自民党の両院議員総会では、無投票で森総裁が選出され、総理となります。
しかしこの一連の動きに対しては、「密室」批判が続出したため、森内閣は、2000年6月2日衆議院を解散し(いわゆる神の国解散)、総選挙を行います。
2000年6月25日の総選挙では、自民党内の公認争いの結果、奈良1区ではなく、比例区で自民党として立候補した高市早苗は、3期目の当選を果たします。そして第2次森内閣が
発足しますが、そのあまりの人気のなさに、早苗代議士は、「勝手補佐官」となって、人気挽回につとめます。しかし、その甲斐なく、森総理は2001年4月に退陣。橋本龍太郎、麻生太郎、
亀井静香、との自民党総裁選挙を勝ち抜いた小泉純一郎が2000年4月24日自民党総裁に選出され、4月26日、小泉新内閣を発足させます。
このような政局の動きの中で、早苗代議士は、2001年1月31日以降、衆議院の文部科学委員長の要職をつとめています。
12.この高市早苗代議士と私との交友録は、過去のファイルや資料を整理しながら、ここまで書き進めてきました。あらためて、このように約10年間にわたる交友を整理してみると、
まさに日本のここ10年間の政治状況の変遷が浮き彫りになります。 とりわけ、
①1993(平成5)年8月の細川連立内閣の成立、と
②村山自社さきがけ政権下での1995(平成7)年1月17日の阪神・淡路大震災の発生、
は大きな出来事でした。
また高市早苗が出版した『永田町日記』は、新米の国会議員の目ではありますが、率直、正直かつ鋭く、「永田町政治」の実態と激動する政治状況を分析して国民に示した立派な本です。
そして、『21世紀・日本の繁栄譜』における彼女の執筆部分は、本当に近未来に高市早苗内閣が実現するかもしれない、と考えさせるに充分な「骨太の方針」を示しています。
2001(平成13)年4月に発足した小泉純一郎内閣は、「聖域なき構造改革」を掲げ、国民の高い支持率を背景として、改革を進めようとしていますが、その前途は不明瞭です。
国民が「今の痛み」を甘受すれば、本当に「日本の明るい未来」は展望できるのか、そう考えてみると、私には、悲観的な見方の方が強くなってしまいます。
2001(平成13)年9月11日、アメリカで同時多発テロが発生しました。
これをめぐって、アメリカはもちろん、世界中が大きく変わろうとしています。日本も、何とか今までのスピードではなく、国際水準のスピードに合わせるべく、小泉総理を先頭に懸命の努力をしていますが、その内容の「是非」や方向性の「是非」は本当に難しい問題です。国民1人1人が今それを真剣に考えなければならないし、国会議員は明確に自分のビジョンを語り、国民に示すべきです。
13.人間には誰しも、「旬」の時代があります。政治家、国会議員ともなれば、なおさらです。最近総理に1番近い距離にあった加藤紘一は、2000年11月のいわゆる「加藤の乱」以来、
表舞台を去ってしまいました。
逆に、小泉純一郎は、今まさに「旬」の政治家です。そして石原慎太郎は1999(平成11)年4月に東京都知事に就任した以降、再び、「旬」の政治家になりました。
そして、小泉総理が登場した中、ますますその存在感を強めています。
菅直人は?小沢一郎は?鳩山由紀夫は?と考えていくと面白いものがあります。
今、女性政治家で一番「旬」の人は?、と考えると、田中真紀子は、ボロがでてしまったため、社民党の辻元清美だと思います。あの市民運動出身らしい元気の良さとインテリジェンスは
なかなかのものです。かつて日本新党が華やかなりし時は、小池百合子だったでしょう。そして今の自民党はと言うと、野田聖子か高市早苗といったところでしょうか?
早苗代議士は、今40歳。国会議員としての経験を約8年積んだ今、これからの一層の飛躍が期待される人材であることは間違いありません。しかし「旬」の観点から見ると、
新しい女性国会議員と対比して、多少の心配がない訳ではありません。
2010年、高市早苗総理総裁が実現するためには、もっともっと華のある活躍を続け、旬の時代を続けることが必要です。頑張って下さい。
このホームページを通じて、私から早苗代議士にエールを送ります。
以 上
2001(平成13)年10月 記
1.小春さんとの出会い
「桂小春」と名乗って活動していた小春さんと知り合ったのは、1995(平成7)年1月17日の阪神大震災の後の1995(平成7)年8月に、私が芦屋中央地区で震災復興まちづくり協議会の顧問弁護士となり、震災復興土地区画整理事業のために,再三、芦屋に行くようになった時期でした。
彼は、芦屋中央地区にある西法寺(さいほうじ)というお寺の副住職である、上原照子さんが、震災直後に、被災者に元気をとり戻してもらおうという趣旨で、お寺で開催した落語会に招かれて
出演して、上原さんと親しくなりました。
芦屋中央地区での震災復興まちづくりのための活動は、そりゃ大変なものでした。しかし、上原さんは震災復興土地区画整理事業をすすめるために、地元住民で結成した
芦屋中央地区まちづくり協議会の役員として、献身的な活動を続けました。
そのエネルギッシュな上原照子さんがお寺の副住職として実施する様々な活動に、小春さんも私も、いろいろな形で参加する中で、男同士の結びつきも強くなっていきました。
毎年1月17日には、西法寺で、阪神大震災の追悼会を開催していましたが、1997(平成9)年1月17日には、私と作家の小田実(おだまこと)氏(かつての「ベトナムに平和を!市民連合」の代表として有名)がゲストとして対談し、小春さんが司会として、うまく議論を進行させるという役割で、対談会をやりました。
この時は、個人補償をめぐって(私は消極派、小田実さんは推進の旗振り役の)大激論となりました。小春さんは、さぞ、大変だっただろうと思います
(「岐路に立つ芦屋中央地区」「芦屋中央地区の皆様へのアピール1、2」 参照)。
2.コハリスト倶楽部の発足
小春さんの後援会としてのコハリスト倶楽部を発足させることになり、1997(平成9)年2月26日に、そのパーティが開かれました。この時、私は発起人にはなりませんでしたが、
このパーティが契機になって発起人とも親しくなり、交友が広がりました。上原照子さんの親友の、女優である「三林京子」(みつばやしきょうこ)さんと知り合ったのもこの頃です。
コハリスト倶楽部は、小春さんの後援会ですから、いろいろと企画を練る一方、落語会などのイベントをやるために、チケットを販売しなければなりません。パーティの華やかさを見て、
さぞ立派な組織で固まっているのだろうと思っていたら、実際は大違い。ポスタ-づくりやチケットの販売、当日の花の準備など、何から何まで自分たちの手づくりでやっていたのです。
コハリスト倶楽部の打ち合わせに出席すると、「坂和さん、チケット何枚いける?」と言うので、「まあ、20枚位なら」というと、以降毎回、それが当然のノルマとなります。
もっとも、コハリスト倶楽部の打ち合わせといっても、このチケット販売が主な議題で、終われば食事会、飲み会というパターンですが・・・。
3.第1回独演会
1997(平成7)年4月12日には、小春さんの第1回桂小春独演会が開かれました。この時は、落語も面白かったですが、ゲストとして、歌手の「桑名正博」(アン・ルイスの元夫)さんを
呼んでのトークが非常に楽しいものでした。桑名正博さんの大ヒット曲である『月のあかり』をつくった時の苦労話や、ナマの歌を聴いて感激しました。
4. 芸術祭 新人賞受賞
小春さんはこの時期、伸び盛りでした。1997(平成9)年度の文化庁芸術祭新人賞を受賞したため、1998(平成10)年3月2日に、受賞祝賀会が開かれることになり、私は発起人の一人
として働くことになりました。発起人に名前を連ねたとなると、私も責任重大です。私の友人や親しい依頼者に、一斉に手紙やFAXを送って、参加の可否を求め、更に電話で勧誘するという、
私の「事務処理能力」が大いに発揮されました。
私の事務所のスタッフを総動員してのこの作業は、今までのコハリストクラブにはなかったもので、一躍、私の「観客動員能力」が認知されるところとなりました。
5. 産経新聞での交遊録の掲載
新人賞の受賞祝賀会が終わった直後、産経新聞夕刊が連載していた「人物交遊録」に、小春さんと私を掲載してもらうことになり、お互いに相手の人物を紹介することになりました。
私は、割と真面目に彼のことを書きましたが、小春さんの私への人物評は、極めてユニークで、さすがに面白い視点をもっているなと関心しました。
この産経新聞の記事は、いろんな場面での私の自己紹介に利用させてもらっています。
6. 三代目桂小春団治の襲名
さらにビックニュースとビックイベントが続きました。何と小春さんが、三代目桂小春団治を襲名することになったのです。そのため、1999(平成11)年4月23日、
襲名披露落語会の開催が決定し、また発起人として、案内状の送付、チケットの販売等の作業が続きました。
襲名披露落語会には、桂春団治、桂米朝、桂文枝、露の五郎、桂春之輔、などの大御所も出席していたため、さすがの小春団治さんも緊張していたようですが、汗を拭き拭きの大熱演でした。
7. 生国魂(いくたま)神社での彦八まつり
1998(平成10)年の9月5日、6日、大阪は谷町9丁目にある、生國魂神社での彦八まつりに私は初めて行きました。これは「1990(平成2)年に大阪落語の始祖といわれる「米沢彦八」の碑をゆかりの地の生國魂神社に建立し、その翌年から神社境内に年に一度上方落語家が一堂に会し、現在の上方落語の隆盛に感謝し、大衆芸能として永遠に庶民に愛され続けられるように」という
趣旨で上方落語協会が、毎年9月の第1土曜日と第1日曜日に開催している行事だということです。私はそれまでは、そういう由縁は全く知りませんでした。私は1996年(平成8)年から、
四天王寺のマンションに住所を移していましたので、生國魂神社は歩いて10分程度のところ。従ってこの彦八まつりへの参加も、私の年中行事となりました。
8. エジンバラ・フェステティバルへの参加
とにかく、小春さん(じゃなかった小春団治さん)は、次から次へと何かをやる人です。小春さんは、何と、毎年8月中旬から9月下旬まで、イギリスのエジンバラで開かれている
エジンバラ祭りの、2000(平成12)年分にエントリーしたのです。「何がどうなるのかわからないが、とにかく行ってみる」ということでした。このため、直前の7月29日には
小春団治エジンバラ公演応援落語会、直後の10月5日には小春団治英国公演報告会、と慌ただしい日程でしたが、何とかこれを消化しました。
エジンバラで活動している最中も、彼はホームページに毎日の報告を続けていたようで、その行動の素早さには感心しきりでした。
9.愛光学園同窓会への出演
私は1992(平成4)年から愛光学園関西支部の幹事をしていますが、毎年、その総会が開かれます。ある時の打ち合わせで、総会も形式的な議題の処理とその後の懇親パーティだけでは芸がないので、30分程度の何かイベントをやろうということになり、「それじゃ小春団治さんを呼んで、ミニ落語会をやろうか」ということになました。その結果、2000(平成12)年7月と、
2001(平成13)年5月の2回、ミニ落語会が開催されました。
1回目の冒頭、小春団治さんの「つかみ」は、「えらいむさくるしい集まりでんな!女が1人もおらへん!」というものでした。そりゃ、愛光中、高校は男子校で、その同窓会ですから、
男しかいないのは当たり前。しかし、この小春団治さんの「つっこみ」を受けて反省したのか、同窓会関西支部は、翌年2001(平成13)年には初の試みとして、
「奥様同伴」を勧めることになりました。従って2回目のミニ落語界の時には、奥様連れもチラホラ。かくいう私も、妻を同伴しました。
10.忘年会や飲み会でのカラオケ合戦
私がカラオケ好きなことは、『趣味のページ-カラオケ-』で書いたとおりです。
小春団治さんは学生時代、いろいろな楽器をやっていたこともあり、音楽センスは抜群です。当然、若い人の歌もよく覚え、歌っています。ウルフルズ、B'z、Mr.children、
などが得意分野です。Misiaの「Everything」なども歌いますが、私が思うには女性の歌はあまり声に合わないみたい(私の方がうまい?)です。
飲み屋に行っても、私も小春団治さんも「女の子を口説くよりも、カラオケ」というタイプですから、自然とカラオケ合戦になります。次から次へと果てしなく歌が出てきます。
「先生、なんで、そんな歌知ってまんねん!」「いつ歌の練習してまんねん!」と言いながらも、自分も対抗して、若い子の歌を歌う小春団治さんです。
弁護士生活33年を迎えようとしている今、本来の弁護士業務とは別の講義・講演を中心とした異業種交流や映画評論家活動の広がりの中、
さまざまなすばらしき人たちと出会うことになった。私にとって今やそれが最大の財産であり、最大の楽しみとなっている。
そこで今後シリーズとしてそんなすばらしき人たちとの交遊を紹介していきたいが、まず手はじめは美しく魅力的な女性から。
8月25日に観た『ディア・ピョンヤン』は生野区に住む在日コリアン2世の梁英姫が、家庭用ビデオで長年朝鮮総連の幹部として活動している父親(アボジ)の姿を撮影したドキュメンタリー映画で、数々の賞を受賞した話題作。3人の兄は20年以上にわたる「帰国事業」によって既に
平壌(ピョンヤン)に帰国しているが、英姫は日本でラジオパーソナリティーや映像作家として働く他、ニューヨークでも活躍した「自由人」。
そんな英姫を囲む食事会が9月29日、鶴橋にある居酒屋「風まかせ 人まかせ」で開かれ、8名の参加者がこの映画について互いの問題意識をぶつけ合いながら大いに語り合った。私が手に持っているのは英姫のサイン入りの著書で10冊まとめ買いしたもの。映画もいいが、
「~家族は離れたらアカンのや~」というサブタイトルのこの本も感動モノ。ミサイルの発射、核実験の実施などけしからん行動が多い
北朝鮮だが、こんな人と語り合えば、ややもすれば画一的思考に陥りがちな私たち日本人の発想も少しは複眼的になってくるのでは・・・?
1. 第1回は映画『ディア・ピョンヤン』の梁英姫(ヤン・ヨンヒ)監督だったが、今回は古澤敏文氏を紹介。『シネマルーム』の出版を中心とする
映画評論家活動の広がりの中、映画ネタでの講演依頼もチラホラと。そんな中、公認会計士でありエンゼル証券の代表取締役である細川信義先生が主催する「突然朝食会」での講演依頼が。大阪での講演に続き、5月8日に東京で2回目の講演をした時はじめて知り合ったのが、
「北京電影学院客員教授」という肩書きをもつ古澤敏文氏。
2. 中国映画大好き・中国旅行大好き人間の私は、03年11月の北京旅行の際わざわざ北京電影学院(張藝謀(チャン・イーモウ)監督や
陳凱歌(チェン・カイコー)監督が文化大革命後の第1期生として卒業した、いわば中国の国立映画大学)を訪れ、女子学生と並んで写真を撮った経験も
あったため、氏は何とも興味深い人物。講演終了後のメール交換を経て、5月27日には彼が来阪。事務所を見学してもらった後、食事をしながら4時間以上も話が弾んだ。
3. 1958年佐賀県生まれの彼は、大学生の頃から映画のプロデュースを始めるとともに、PFF(ぴあフィルムフェスティバル)での
人材育成、「横濱学生映画祭」のプロデュース等の映画支援活動を精力的に続けてきた、まさに「映画漬け」の人生。そして
東京藝術大学先端芸術非常勤講師を経て、05年に北京電影学院客員教授に就任し、日中の映画に関する橋渡しと、学生への映像製作の講義に
尽力。そして06年には、「横浜中国映画祭2006」をプロデュースという輝かしい経歴をもっている。
4. そんな彼は、7月以降は適宜北京へ通い映像製作の支援をするとのこと。そして9月からは学院に新入生が入ってくるため、ひょっとすればこの私も、北京電影学院の学生たちを前にして特別講義をやることになるかも?もしそうなれば、『坂和的中国電影大観』(シネマルーム5)を
中国語に翻訳して、中国13億の人民に読んでもらうという私の夢が一歩現実に近づくことに?
今後はよほど健康に留意し、長生きしなければ・・・。
古澤敏文さん
北京電影学院での撮影実習の授業風景
1. 07年7月25日の天神祭パーティーには、何と大物ゲストとしてあの浜村淳さんが登場!その軽妙なトークに出席者は目を見張り、
一挙に浜村ワールドへ・・・。
2. 私が浜村さんと懇意になれたのは映画の試写室だが、『北京ヴァイオリン』(02年)のすばらしさに共鳴したことが縁で(?)、
04年4月7日には、私と同じ30周年を迎えた有名な長寿番組『ありがとう浜村淳です』にゲストとして出演する栄誉にも。
3. 話していていつも驚くのは、彼の記憶力のたしかさ。70歳を超えてなおあれほどしっかりしているのは、彼の記憶は活字からだけではなく生まれながらの感性に加えて、しゃべった言葉とそれを聞いた耳が大きく効いているため。私の司法試験の受験勉強も、1人で大声で
しゃべりながらのものだったが、口でしゃべり耳で聞くことによって記憶力は大幅にアップするもの。そんなしっかりした記憶に裏づけられた
浜村節は、きっと今年の天神祭でも見られるはず!
1. 10冊の著書をもち、800万人のアクセスがあるブログをもつ、日本在住20年のバイリンガル作家が1962年北京生まれの毛丹青氏。そんな有名作家と中国語版『坂和的中国電影論』の
出版について協議しながら楽しく食事したのは、私の行きつけのちゃんこ屋「神鷹」。
08年3月19日のこの出会いをセットしてくれたのは、留学生の時から家族ぐるみのつき合いをしている山西省出身の女性郭小莉だ。人の出会いとは面白いもの。
一目で互いの「個性的で濃いキャラ」を嗅ぎつけあい、書くことが大好きという共通点を持つ2人はたちまち大の親友に。
2. そんな毛氏の紹介で出席したのが、08年4月2日に開催された「中国の人気作家蘇童が行く関西の旅 歓迎座談会」。その懇親会で私は弁護士稼業との2足のわらじをはく映画評論家として
紹介され、『シネマ5』が配布されることに。その結果、蘇童氏との2ショットや女優田原さんとの2ショットが実現するとともに、たくさんの新たな友人が生まれることになった。
3. ヒット作を連発している毛氏の狙いは、女優との対談など、売れる本にするためにいかなる仕掛けをするかということ。月に1度開催されているたこ焼き屋「にいたか」での「お茶会」などで、その戦略と戦術をじっくりと検討。毛氏は「僕が等身大の日本人と触れ合った感動を、多くの中国人と分かち合いたい」と語っていたが、そんな思いは私も全く同じ。
4. と言ってる間に早々と、上海での出版社との顔合わせを兼ねた打合せと「毛丹青vs坂和章平の対談」の企画が浮上し、遂に8月22~24日の上海行きが決定した。
中国語の本の出版のためには本格的な通訳と翻訳者が必要だから、東京から駆けつけてくれるその先生とは上海で合流することに。その時期はまだ北京オリンピックの開催中だから、
いろいろと大変だろうが、精一杯情報収集をし、出版の方向性を見極めたい。
5. 毛丹青氏とのこんな交遊を大切にして、私なりの日中友好と日中交流を広げ深めていく中で、中国語版『坂和的中国電影論』の出版を近い将来必ず実現したいものだ。
1. 08年9月中旬、私のケータイに塩屋俊監督から電話があった。それは、彼が監督した『きみに届く声』が梅田ブルク7で公開されるので是非観てほしい、といううれしい案内。
これは渡辺淳一の原作『少女の死ぬ時』を眞木大輔、杉本哲太、戸田菜穂、寺島咲、西岡徳馬らの出演で映画化したもの。離島の病院を舞台とし、「強くなりたい!」というテーマで若手医師の
悩みと確執が描かれる作品。9月20日から1週間の限定公開だから鑑賞した人は少ないだろうが、私が彼と知り合い交流を深めるきっかけとなった、『0(ゼロ)からの風』(07年)と
同じような問題提起作だ。
2. 弁護士登録以来35年間ずっと交通事故による損害賠償事件を扱っている私は、07年、08年と交通事故をテーマとした講演が続いている。そこで飲酒運転撲滅と事故防止をアピールするため私がいつも予告編を上映しているのが、『0(ゼロ)からの風』。これは無免許、飲酒、暴走運転で息子をひき殺しながら、加害者は業務上過失致死による軽い処罰しか受けないのなら、
「私たちが法律をつくります」と宣言して署名運動を展開し、01年12月に危険運転致死傷罪を新設させた鈴木共子さんの姿を描いた問題提起作。
3. そんな塩屋俊監督との交遊は、この映画について私が書いた評論を通じて始まったのだから映画評論を書くことの意義は大きい。彼は全国を走り回りながら多方面の活動を展開しているため
会えるチャンスは少ないが、焼肉+焼酎、焼き鳥+焼酎となれば、いつも楽しい議論がエンドレス。10月4日には『きみに届く声』についての議論を闘わせ、11月29日には映画談義に
盛り上がりつつ、次回作の構想を伺った。そんな塩屋俊監督の次の企画とその完成を期待し注目したい。
1. 塩屋俊監督とは、事務所だより第12号(09年新年号)交遊録その5で紹介したとおり、
『0(ゼロ)からの風』(07年)以来の交遊。『きみに届く声』(08年)に続く
『ふたたび swing me again』(10年)では企画・脚本段階から参加し、
クライマックスシーンの撮影には夫婦でエキストラとして参加した。さて白髪頭に気づいた方は?
彼の中国での展開も拡大し、2010年の上海万博では、阪神・淡路大震災で実際に姉を失った
古筝奏者伍芳(ウー・ファン)を起用した音楽劇『彩虹橋in上海万博』を大成功させ、神戸では『彩虹橋』を
凱旋公演した。そんな彼は東京で「ウィル・ドゥ」を経営すると同時に、大阪では「アクターズクリニック」を
経営しているから、今や忘年会の相互参加とスタッフ同士の交流は年中行事となったが、
近時は弁護士業務としての関与も次第に拡大中。
2. それは、映画監督として創造の世界に生きていく上で必然的に伴う特許権の問題や資金集め・資金回収の
財務問題などが活動の広がりと共に拡大してきたためだ。最新作『種まく旅人~みのりの茶~』の制作、
映画『原信太郎 鉄道模型の世界』の制作や学校法人大手前学園で上映するミュージカル
『大手前ルネッサンス/ミュージカル』の制作などはいずれも企画段階から相談にあずかっている。
近時は更に大きなプロジェクトも進行中。そのひとつは、マーロン・ブランド、ロバート・デニーロなど数々の
名優を輩出したアメリカの名門演技学校である「ステラアドラー校」と相武紗季、桐谷健太など注目の若手俳優を
多く指導してきた日本を代表する演技学校アクターズクリニックとの業務提携。これは彼の俳優時代のアメリカでの数々の活躍を基盤としたものだが、これが軌道にのれば、より表現力を持った若手俳優の育成に寄与できること
まちがいなしだ。
3. もう1つは、11年10月から始めた「Remember 3.11」を合言葉とした「HIKOBAE PROJECT」の展開。これは東日本大震災で大きな被害を受けた相馬市の復興記録であるドキュメンタリー『HIKOBAE』の制作をメインとし、ドラマ制作やノベライズ出版、さらには日米での舞台公演などを内容とした大プロジェクトだから、弁護士として関与すべきテーマも
多い。同時並行的に複数のプロジェクトを進め、東京・大阪間のみならず海外を駆け巡る彼は、頭の回転も速ければ舌の回転も速い。しかし、こちらも弁護士としての案件処理のスピードにおいては
誰にも引けをとらないつもり。
4. そんな2人のすばらしい交流ぶりは、焼肉+焼酎、焼き鳥+焼酎にとどまらず、互いの本業でのぶつかり合いに深化し、かつ激化している。「新しいもの好き」と「何でも前に突っ走れ」は
2人に共通する性格だが、弁護士業務として彼の業務展開をフォロー・チェックしていくためには、私の方が多少引き締めなければ、と自戒している。
今後も同時並行的にあれこれの企画が持ち上がることは確実だから、細かい実務を担当してくれる強力な助っ人・坂和宏展弁護士と共に、塩屋監督の期待に応えていきたい。
1. 0(ゼロ)からの風』の塩屋俊監督との交遊録は09年新年号で紹介した。彼は俳優と映画監督の他、アクターズクリニックの
主宰者としても東京と大阪を掛け持ちして多忙な日々を送っているが、昨年12月13日にその大阪のアクターズクリニックで開かれた忘年会で
お会いしたのが、『ミッドナイト イーグル』の原作者である高嶋哲夫氏。高嶋氏は1994年に『メルト・ダウン』で
第1回小説現代推理新人賞を、1999年に『イントゥルーダー』で第16回サントリーミステリー大賞・読者賞をダブル受賞、
そして2000年に『ミッドナイト イーグル』を世に送り出してきた。最近は『風をつかまえて』が大ヒット中。
2. 塩屋監督は映画俳優らしく風貌も精悍でしゃべり方もシャープだが、私と同じ1949年生まれの高嶋氏の風貌は
普通のオッチャン(失礼)。また、しゃべり方もどちらかというと朴訥系(またまた失礼?)。しかも、慶応義塾大学工学部と大学院を卒業し、
日本原子力研究所研究員を経て、カリフォルニア大学に留学したという経歴だから、どちらかというと小説家ではなく学者さんのイメージ?
そんな彼がなぜ小説家に?と少し不思議だが、ミステリー大賞を受賞するようなややこしい方程式みたいなものを構築したり解いたりするのは、
理科系の頭の方が適しているのかも?
3. 07年12月8日に観た『ミッドナイト イーグル』の総評で私は「北朝鮮の核開発問題をめぐって6カ国協議が続いている昨今、
格好の映画が登場!特殊爆弾を積んだステルス爆撃機が北の上空を飛行しているとしたら?その機体が日本の某所に墜落したとしたら?
日本国の危機管理体制を考え、かつその中での家族愛を考えるに絶好の素材だが、料理の仕方はイマイチ。北の工作員はこんなバカばかり?
なぜ、邦画ってこんなに緊張感が欠如しているの?私は、そう思わざるをえないのだが・・・。」と書き、
採点は星3つ(『シネマルーム18』107頁参照)。またその評論では疑問点として、①某国の工作員はバカばかり?
②幕僚たちもバカばかり ③あんなに簡単に銃が撃てるの? ④なぜ待機しないの?なぜ攻撃しないの? ⑤内閣総理大臣は敬礼するの?
⑥西崎と慶子は「呼びすて」にするような仲? と書いたが、それに対する原作者の反応は?
4. 忘年会では、その日観たばかりの『252 生存者あり』の評価をめぐって、面白かったという高嶋氏と、「あれはくだらなかった」と
主張する私が激突。他方、12月3日に観た『感染列島』をめぐっては、彼が執筆を狙っているパンデミック系作品との関連で話が盛りあがった。高嶋氏は講演でも全国から引っ張りダコで、1年中あちこちを飛び回っているが、こんな議論のやり方をみていると、
彼の講演もきっと面白いはず。
5. その後続いているメールのやりとりの中では、新作の執筆意欲も満々で、時代劇にも進出?新型インフルエンザ騒動は収まったが、
秋冬に再度襲来するかもしれない「パンデミック」をテーマとした新作の準備状況は?私が予定している『映画から学ぶ裁判員』(仮題)と同様、タイムリーに出版できれば大ヒットまちがいなしだ。7月7日生まれの彼も遂に還暦。還暦を迎えた者同士、年齢を超えたパワーで互いに刺激を
与え続け合いたいものだ。
1969年夏の高校野球。松山商業VS三沢高校の決勝戦延長18回引き分けと翌日再試合を熱狂しながらTV観戦したのは、
私が大学3回生の夏、帰省した松山で。その実況中継をしたのが羽佐間正雄さんだ。1954年にNHKに入局した彼は、以降プロ野球、
高校野球、陸上、マラソン、ゴルフ、サッカー、スキーなどスポーツ全般の実況を担当したスポーツキャスターの草分け。
オリンピックの実況中継は1964年の東京から1988年のソウルまで計11回というから恐れ入る。
さらに、全米スポーツキャスター協会国際部門賞第一号で、殿堂入りを果たした唯一人の日本人だから、そんな人は雲の上の人?
ところが意外や意外、そんな大先輩と私はここ数年大の仲良し。それは一体なぜ?
彼との縁が生まれたのはゴルフ、カラオケ、旅行を通じてだが、中でも1番呼吸が合うのがカラオケ。
アナウンサーが声がいいのは当たり前だが、ゴルフや競馬への情熱・執念と同様、彼の歌唱力は群を抜いている。彼とゴルフを競い合う友人は
多いが、カラオケでは敵前逃亡の友人が多い中、私だけは敢然とカラオケでチャレンジ!その結果、23年間も続いている羽佐間さん主催の
ゴルフ会「愛声会」の懇親会では、ここ3回連続で私が生バンドをバックに竹内まりやの『人生の扉』を熱唱することに。
昨年77歳の喜寿を迎えた彼は『勝者の流儀』を出版し、星野仙一、長嶋茂雄、王貞治、山下泰裕、鈴木大地などトップアスリートの
知られざる原点を分析し、今年7月からは雑誌『WiLL』で「プロ野球黄金時代を築いたサムライ達」の連載を開始した。
その筆力たるや実況中継力、司会力、歌唱力、記憶力、勝負力等々と同じく超一流。とにかく面白い。是非ご一読を!
写真を見てのとおり、栄養状態の悪かった戦前の男とは思えない偉丈夫だが、それは鳩山由紀夫総理と同様もともと名家の生まれだから?
赤穂浪士に詳しい人はハザマという姓を聞いただけでピンとくる人も?そんなスゲエおじさんと親しく交友させてもらえていることを、
ここにあらためて感謝!羽佐間さん、いつまでもお元気で活躍して下さい。内緒のお話としては、すすきのの夜をまたの楽しみに・・・。
私が河合税理士とはじめて出会ったのは、08年7月。昔からの依頼者の紹介で、
不動産買い戻し事件の相談を受けた時だ。税理士は税務申告をするだけではなく、
それに関連した相談を聴くから、それが法的紛争になれば弁護士の協力が必要となる。
私にはそういう業務で関係している友人の税理士がたくさんいるが、驚いたのはまだ20歳代の
イキのいい税理士だったこと。相談案件はかなりの難事件だったが、何とも大胆かつ
オリジナリティ溢れる戦略と真剣な対応によって見事に解決。この事件処理の中で培われた
互いの信頼と、若いのに中国好き、特に三国志大好き人間というキャラが、倍ほど年の違う
わがままオヤジのキャラと同ベクトルだったらしく意気投合することに。その結果、彼は
私が月に1度参加している中国通が集まる「お茶会」にも参加するようになったうえ、
事件の相談や依頼が増えてきた。
知り合った当時は勤務税理士だった彼も、09年11月には独立して
会計事務所サンタックスオフィスを設立し、北浜駅のすぐ近くに移転した。そして、私が
平日だけの夜会員として毎日のように通っているコナミスポーツクラブ北浜へも入会。
その結果、今では互いの裸身を見せ合いながらの交流も時々ある。
最近めったに見ないいい若者だから、そのうち結婚相手を世話してやろうと
秘かに思っていたのに、ある日バッタリ出会った行きつけの焼肉屋で彼女を紹介されたうえ、
今年4月には「結婚しました」との報告も。婚カツ、婚カツと騒いでいるニッポン国だが、
やっぱりいい玉は早く売れるものだと痛感。今後は、私のみならず宏展弁護士の同世代の良き
友人として交流を深めるとともに、仕事のうえでも密着度を深め、かつ競いあっていきたい。
お気軽にご相談ください!会計事務所サンタックスオフィス
TEL(06)6226-1710 http://www.suntaxoffice.jp/
中国の律師試験に合格した西安出身の余静(よせい)さんは、2010年4月から大阪の法律事務所での勤務を開始。日中の取引業務を中心にその実力を
発揮している。「人治」から「法治」へと大きく方向を変えた中国では次々と法律が制定され、訴訟や仲裁の役割が増大中。紛争防止のための契約書等の
事前チェックも大切だ。そんな中、日中を股にかけたビジネスについて法的にチェックできるバイリンガル律師の役割は重大だ。今後の余静さんの活躍に
期待したい。彼女が龍谷大学の留学生だった01年8月の西安旅行以来家族ぐるみでの付き合いが続いており、弟の余魯(よろ)さんも現在東京の
保険会社で奮闘中。余静さんには北京電影学院での中国映画論の講義など多くの場面で通訳としてお世話になったが、今後は仕事上のパートナーとして、
あるいは私の趣味としての中国での旅行・講演・出版等のアドバイザーとして、今まで以上に良好な信頼関係を築いていきたい。
なお、私の下手な中国語の指導も面倒がらずによろしく!
1. 「コバケン」こと「炎のマエストロ」小林研一郎氏は、外国ではハンガリー国立交響楽団常任指揮者、日本では日本フィルハーモニー交響楽団首席指揮者などを歴任した日本を代表する指揮者の
1人。今回は、そのコバケンが私の交遊録に登場!
2. 私がそんなすごい人と知り合えたのは、長年顧問弁護士をつとめ、数年前から監査役をしている㈱オービック主催の「春を呼ぶコンサート」に01年に参加した時だから、早や10年になる。
もともとクラシック音楽が大好きでオーディオやLPレコードに凝っていた私は、そんなコンサートに招待されたことに大喜び。いつの頃からか、コンサート終了後の会食にも
ご一緒するようになった。オービックの創業者である野田順弘社長は10年6月に日経新聞「私の履歴書」で1カ月間連載され、『転がる石は玉になる』(日本経済新聞出版社)という
単行本にもなった立志伝の人だ。そんな彼は「これは!」と信じる人間とはトコトン付き合う人。それはオービックのコマーシャルに登場するプロゴルファー青木功氏との交遊でよくわかるが、
まさにコバケンとの交遊もそれと同じだ。
3. コバケンはリスト作曲の「ハンガリー舞曲」をよくアンコールで使っていた。それはリスト記念勲章やハンガリー文化勲章を受けるなどハンガリー政府との交流が深いためだが、
最近は「ダニーボーイ」も多く、その選曲にはしびれてしまう。またコバケンの十八番は、ベルリオーズの幻想交響曲、チャイコフスキーの交響曲第5番、ベートーヴェンの交響曲第7番などだが、
これらはいずれもLPレコードで何十回、何百回と聴いた私の大好きな曲。「コバケン節」と呼ばれる全身を使った指揮にまさにピッタリの曲ばかりだ。
4. 普通なら「雲の上の人」として接触不可能なこんな人と親しく交遊できるようになったのは、野田社長を中心とした「人の和」のおかげだが、弁護士という職業のありがたさと生来の
厚かましさで、私はコバケンさんに急接近!ゴルフの腕前は格段の相違があるから、同じコンペに出ても同じ組で回らせてもらうことはないが、コンペ終了後の懇親会ではあくまで対等。
またカラオケルームに入れば、日本を代表する指揮者もナニワのおっちゃん弁護士も同じ土俵上での勝負だ。コバケンさんと交遊してびっくりするのは、日本を代表する指揮者とは思えない物腰の
柔らかさと言葉遣いの丁寧さ。女性に対してそうなるのはわからないでもないが、私のようなガラの悪い弁護士に対してもあくまで紳士的だから、逆に恐縮してしまう。
5.こちらの写真は11年6月2日にザ・シンフォニーホールで開催されたコンサート後の会食の席で撮ったもの。この席では、彼が福島県いわき市の
小名浜生まれであることが語られ、3.11東日本大震災からの復興とその支援のあり方を熱く語り合った。
たまたま同日は、菅総理の内閣不信任決議案が提出されたにもかかわらず、圧倒的多数で否決された、日本の恥ずべき猿芝居の日。
こんなニッポンでどうするの!そんな語り合いの中で会食は終了したが、「炎のマエストロ」がつくり出す音楽が、被災地の人たちが復興するための
力強い支えになることを期待したい。
1. 皆さんは最近はやりの「癒し」という言葉がピッタリの女性歌手「う~み」を知ってる?約10年前のちょっとした法律相談がきっかけで友人となった私は、以降一緒にカラオケに行ったり、
一緒にCDを作ったり・・・。さらにう~みが坂和事務所恒例の天神祭パーティーの常連ゲストになっていたことは友人諸氏もご存知のとおりだ。
う~みのオフィシャルウェブサイトより
発売中の最新アルバム
05年の名曲入りCD
2. そんな彼女もメジャーデビューを果たし、CDの数もファンの数も増大しているが、テレビでの露出はまだまだ少ない。しかし、やしきたかじんばりの語りを見せるライブ公演の人気は
うなぎ登りだから、AKB48の人気には至らないとしても、近い将来は紅白歌合戦への出場も射程距離に・・・?
3. う~みの歌のうまさは折紙つきだが、大阪弁で言うと「アホかいナ」と思うほどの人柄の良さも人気の秘密。いくら人気が出ても威張ることも飾ることもなく、誰とでも気さくに話をし、
公演依頼があればどんな遠いところでも駆けつけていく姿勢は今ドキ珍しい。昔のようなCDの大量販売がありえない昨今、ライブ会場での1枚1枚直接手渡しの販売スタイルがう~みには
ピッタリだ。そんなう~みの最新アルバムは『なとわ あなたへ~』(12年2月発売)。作詞:嶋津淳子、作詞協力:坂和章平、作曲:う~みの名曲『SOME~ミマモッテイルヨ・・・』を
収録した『なとわ』(05年発売)と共に是非ご購入を!
1. 1963年に東京で個人事務所を創設した松尾翼弁護士は以降その規模を拡大するとともに、広く海外業務に目を向け渉外業務のパイオニア的役割を果たしてきた。
彼は私より15年ほど先輩だが、英語ペラペラは当然として、イギリス・ドイツ・オーストラリア・ベルギー・中国などまさに「世界を股にかけた」活躍ぶりはスゴイ!東京にあるいくつかの
大手大規模渉外事務所に決してひけをとらない海外業務を精力的にこなしてきた。
2. 弁護士が「天職」だと信じる彼は、「コロンブスの卵」の大切さを説く。そのココロは、誰もやったことがないことをやって見せる、その度胸、決断それを裏付ける理論武装が弁護士には
不可欠ということだ。それを実践したのが、ビートルズのポール・マッカートニーが成田に来日した時、上着のポケットに大麻が入っていたとして逮捕された事件にみる彼の弁護活動だ。
ポールは正式に日本に入国する前に大麻を持っていることがわかって逮捕されたのだから、日本の大麻取締法は適用されず、したがって刑法上も罪にならず、入管法上の退去強制処分にも該当しない
という彼の弁護方針は、まさに「コロンブスの卵」理論の実践だ。これによって結局ポールは、「上陸拒否」という事実上の無罪を勝ち取ったが、それを導いた彼の殊勲は大きい。
3. そんな大先輩と私が「お友達」になれたのは、私の勝手な分析によれば、一匹狼的でケンカに強い弁護士ながら趣味や遊びが大好きな弁護士という本質(?)が共通しているため。
ラフな服装でリュックを背負っている私に比べ、彼はいつも端整な服装のおしゃれな紳士だが、その内実はケンカ早く子供心がいっぱい!それは『議論に絶対負けない法』シリーズの出版をみても
明らかだ。また若く美しい女性への好奇心は人一倍強く、その延長としての(?)面倒見の良さも天下一品。さらに人と人をつなぎ、その輪を広げる喜びを至上のものとしているから、
映画評論家を自称し中国での活動を広げている私のような弁護士にも関心をもってくれたわけだ。
4. 写真Aは、日比谷公園を望む富国生命ビル18階にある弁護士法人松尾綜合法律事務所の豪華な受付。
写真Bは新橋演舞場の真ん前にあるステーキレストラン「ひらやま」での彼の仲間たちとの写真だ。彼がこの店を
推薦する最大の理由は、厳選した和牛がすべて「戸籍謄本」付きのフィレとサーロインであること。
サーロインはチャコール(炭)で焼き、フィレはガーリックを下敷にした鉄板で蒸らして食べる。
その他の料理もすばらしく、デザートのケーキも逸品揃いだ。
5)彼との事件処理の共同打ち合わせは厳しいが、一歩そこを離れると楽しい世界が広がっていく。
彼から紹介していただいた中国人の学者や弁護士たちは多いうえ、『シネマルーム』送付先の紹介も多い。
弁護士を取り巻く情勢が厳しくなる中、東京での共同事務所の維持運営は大変だろうが、
これからも末永くお元気で「松尾節」を聞かせて欲しい。