洋11-7
「アレクサンドリア」 ![]()
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2011(平成23)年1月14日鑑賞<GAGA試写室>
監督・脚本:アレハンドロ・アメナーバル
ヒュパティア(天文学者)/レイチェル・ワイズ
ダオス(ヒュパティアに仕える奴隷)/マックス・ミンゲラ
オレステス(ヒュパティアの生徒、後にアレクサンドリアの長官)/オスカー・アイザック
アンモニオス(修道兵士のリーダー)/アシュラフ・バルフム
テオン(ヒュパティアの父、図書館長)/マイケル・ロンズデール
シュネシオス(ヒュパティアの生徒、後に主教)/ルパート・エヴァンス
アスパシウス/ホマユン・エルシャディ
キュリロス(主教)/サミ・サミール
メドルス/オシュリ・コーエン
2009年・スペイン映画・127分
配給/ギャガ、powered by ヒューマックスシネマ
<クレオパトラ死亡後、4世紀末のアレクサンドリアは?>
エジプトと言えばピラミッドとスフィンクス、そして絶世の美女クレオパトラ。またクレオパトラと言えば、エリザベス・テイラーが主演し、レックス・ハリソンがシーザー役を、リチャード・バートンがアントニウス役を演じた1963年公開の映画『クレオパトラ』が強く印象に残っている。その物語は「シーザーが死んだ」と覚えさせられたBC44年前後だが、それから約400年後、4世紀末のエジプトは?そしてローマ帝国は?
『クレオパトラ』は、クレオパトラと結婚しエジプトに住むアントニウスを破ったオクタウィアヌスがローマ帝国の初代皇帝となるところで終わったが、以降4世紀末までの間にエジプトの大都市アレクサンドリアはいかなる変遷を?
<あの時代にこんな女性が!新たな視点に拍手!>
本作の主人公は、4世紀末のアレクサンドリアに生きた女性天文学者ヒュパティア(レイチェル・ワイズ)。異端審問所によるガリレオ・ガリレイの裁判で有罪が告げられた時、ガリレオが「それでも地球は動く」とつぶやいたのは17世紀のことだが、4世紀末のアレクサンドリアに「ひょっとして地球が太陽の周りを回っているのでは?」と考えたヒュパティアのような天文学者がいたことにビックリ!そして、『海を飛ぶ夢』(04年)(『シネマルーム7』197頁参照)のアレハンドロ・アメナーバル監督が、これまで映画界の誰もが目を向けてこなかった4世紀末のアレクサンドリア、そしてそこに生きたヒュパティアという女性天文学者に目をつけたのはさすが慧眼!と拍手を送りたい。
本作ではCGではなく実際に建てられたという4世紀末のアレクサンドリアという都市の壮大さが売りの1つだが、それ以上に興味深いのは、どんなストーリーが展開されるのかということ。ヒュパティアはそんな時代、そんな舞台で、いかなる歴史的な役割を?試写の案内をもらった時から、そんな期待で胸がいっぱい。さあ、本作によって、新たな勉強の視点を!
<ローマ帝国はキリスト教を弾圧?>
イエス・キリストを描く名作映画はたくさんあるが、そこではイエス・キリストが迫害され、キリスト教が異教として弾圧される姿が描かれていた。また日本では、キリスト教を異教として弾圧した一時期もある。しかし、イエス・キリストを磔にしたのがローマ帝国なら、キリスト教を広く広めたのもローマ帝国だ。
ローマ帝国は4世紀末に東ローマ帝国と西ローマ帝国に分裂し、西ローマ帝国は476年に滅亡したが、ヒュパティアが生きたローマ帝国の支配下にあったアレクサンドリアにおけるキリスト教の布教状況は?
<異教はどちら?基準をしっかりと!>
クレオパトラの時代のエジプトが多くの古代の神々を祀っていたことは映画『クレオパトラ』からもよくわかる。したがって、膨大な図書(といってもその実態は巻物)を誇るアレクサンドリアの「知の象徴」である図書館は、多くの古代の神々(の像)によって守られていた。映画冒頭、キリスト教の修道兵士のリーダーであるアンモニオス(アシュラフ・バルフム)が火の上を歩く奇跡を見せるなどして、古代の神々を信じるアレクサンドリアの支配者たちに論戦を挑むシークエンスが登場するが、ここではキリスト教は弾圧される異教ではなく、貧しい者を救う勢いある新興宗教だ。
そこで私たちに必要なことは、何が正教で何が異教であるかを考える基準。これまでは何となくキリスト教は弾圧される宗教だと考えていたが、ローマ帝国末期のアレクサンドリアではそうではないことが少しずつ明らかになってくる。つまり、古代の神々を信じるアレクサンドリアの古き支配者たちの宗教こそ異教とされ、キリスト教から攻撃されていたわけだ。さあ、そこから始まる血なまぐさい「宗教戦争」とは?
<2人の教え子がストーリー形成の軸に>
私は年に1度大阪大学法学部の「ロイヤリング」で「都市づくり」をテーマとした90分の講義をしているが、近時そこで痛感するのが学生たちの熱意不足。それに比べると、「図書館」の校庭(?)で行われているヒュパティアの講義に対する学生たちの反応の良さは羨ましい限り。とりわけ優秀な生徒は、ある時ヒュパティアに愛の告白をしたにもかかわらず、学問に一生を捧げたヒュパティアから明確に拒否されたオレステス(オスカー・アイザック)。映画後半彼はキリスト教に改宗したうえアレクサンドリア長官の地位についているが、その間オレステスのヒュパティアに対する想いはいかに?
ゼミ形式の授業でこのオレステスと渡り合うのが、ヒュパティアが信頼するもう1人の優秀な生徒シュネシオス(ルパート・エヴァンス)。シュネシオスも後半はキリスト教に改宗したうえ主教に任命されているから、これまた大変な出世だ。しかし、後にキリスト教指導者のトップに立つキュリロス主教(サミ・サミール)がユダヤ教の弾圧に続いて、聖書の言葉を根拠にヒュパティアに対する宗教的圧力を強める中、オレステスとシュネシオスはいかなる行動を?
オレステスとシュネシオス、この2人のヒュパティアの教え子が本作のストーリー形成の軸になるから、まずはこの2人のキャラに注目!
<全く違う視点が奴隷の目だが、その役割は?>
4世紀末のアレクサンドリアに、なお奴隷の制度があったことは興味深い。しかしその分析はひとまず置き、本作ではオレステスやシュネシオスと違って歴史上の人物ではなく、本作のために架空の人物として設定されたヒュパティアの忠実な奴隷ダオス(マックス・ミンゲラ)にも注目したい。本作前半のスペクタクルシーンは、図書館長でありヒュパティアの父であるテオン(マイケル・ロンズデール)の命令によって発生したキリスト教徒との血なまぐさい一大宗教戦争。テオンの思惑に反し多くのキリスト教徒の反撃によって返り討ちとなり、図書館に立てこもらざるをえなくなったテオンたちアレクサンドリアの支配者たちは、結局ローマ皇帝の裁きによって図書館を放棄せざるをえないことに。そこで必然的に行われたのが、古き神々の像の破壊とBC213年に中国の秦の時代に行われた「焚書坑儒」と同じような大量の文献の処分。これをみると、当時のキリスト教徒たちの知的レベルの低さを嘆かざるをえないが、それもまた歴史・・・?
それはともかく、奴隷の身ながら秘かにヒュパティアを想っていたダオスは、なぜ厳禁されていたキリスト教に興味を持ち改宗したの?また、勢力図が入れかわった後、アンモニオスに見込まれたダオスはなぜ修道兵士として過激な活動に参加することになったの?後半に第2のスペクタクルシーンとして描かれる、キリスト教徒によるユダヤ教徒への弾圧シーンの意味をしっかり確認しながら、ダオスの生きザマとその役割に注目!
<変わることが進歩?それとも、変わらないことが?>
ヒュパティアの優秀な生徒だったオレステスとシュネシオスは、映画後半には長官と主教にそれぞれ大出世。他方、奴隷だったダオスは修道兵士に変身をとげ、重要な役割を果たすが、それは彼らが時代の変化をしっかり読み、それに対応したためだ。日本では1月14日夕方に菅直人再改造内閣が発足したが、それは時代の変化にしっかり対応したもの?それとも野党におもねた小手先だけの目くらまし?そう考えざるをえないのがつらいところだが、本作にみる時代の変化に対応した男たちの華麗なる変身(?)に比べて、ヒュパティアは?
日本では今でこそ女性が職業をもつのは当たり前だが、戦前はなかなかそうはいかなかった。また江戸時代から明治時代にかけて日本ではじめての産科医となったシーボルトの娘・楠本イネのような女性がいたものの、女性科学者などおよそ考えられないものだった。それに比べると、ギリシャ時代という知的な時代を体験したヨーロッパでは女性科学者も少しは存在したようだが、超美人なのに男とは全く無縁の女性科学者はひょっとしてヒュパティアだけ?ヒュパティアもオレステスからの愛の告白に少しは心が揺れただろうが、きっぱりとそれを拒否。プレスシートでは、ヒュパティアの恋愛観についてレイチェル・ワイズが「ヒュパティアは歴史に残るような恋をしたけれど、その相手は宇宙だった。彼女はヴァージンのまま死んだの。彼女の生徒の手紙からわかっているわ。生徒たちは熱烈にヒュパティアを慕ったけれど、彼女はとても威厳があって高貴な人だから、教師と生徒の一線は決して超えなかったの。」と語っているが、映画を観れば「なるほど、そうか」と納得できる。
オレステスもシュネシオスも今や権力闘争を中心とした現実への対応で頭の中がいっぱいだから、きっと天文学への興味は失ったはず。ところが、こんなにも時代が激動する中で昔と同じように天文学の研究のみに没頭するヒュパティアはえらいものだ。そう考えると、変わることが進歩?それとも、変わらないことが?
<なぜヒュパティアはこんな目に?本作から何を学ぶ?>
イエス・キリストが姦通の罪によって石打ちの刑を受けようとしている女性を見て「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と教えたのは有名だが、本作をみているとローマ法という法律体系が不十分なためか、「宗教戦争」華やかなりし4世紀末のアレクサンドリアでは「石打ちの刑」が頻繁に実施されていたようだ。日本人の多くはユダヤ教とキリスト教の違いを知らないだろうから、ユダヤ教とキリスト教の2つだけが公認の宗教として認められてから数年しか経っていないのに、今度はキュリロス主教によってユダヤ教の弾圧が強行される映画後半のストーリーは理解が難しいかもしれない。また、政治に何の関係もない一天文学者のヒュパティアが、なぜキュリロス主教によって攻撃の対象とされるのかについても理解が難しい。
それを読み解くカギは、今や暴君のように成り果てたキュリロス主教に対する対応の違いにある。オレステスとシュネシオスは共にヒュパティアの優秀な教え子で、今でもヒュパティアを尊敬していることは全く同じ。しかし、時代が変わりキリスト教の地位が格段に強化された今でもヒュパティアに対して意外に純粋(単純)な長官オレステスと、意外にタヌキかも知れない主教シュネシオスとの違いは?そしてまた、今キュリロス主教が読み上げたように、聖書には女性についてどう書いてあるの?中国では1966年から1977年まで毛沢東の指導による文化大革命の嵐が吹き荒れたが、そこで金科玉条のように活用されたのが毛沢東語録。しかし、そこに書いてあることが絶対だというのは、やはりおかしいのでは?そんな批判をすることは今では可能だが、あの当時の中国ではとてもムリ。すると、キリスト教が絶対的な力をもった4世紀末のアレクサンドリアでは、聖書に書いてあることに違反する行動をとっているヒュパティアはひょっとして魔女?キュリロス主教の主張は結局そういうことだ。
そんなバカな!と私は思うのだが、映画はラストに向けて何とも悲惨な結末を用意する。なぜ、ヒュパティアはこんな目に?そして、私たちは本作から何を学ぶ?
2011(平成23)年1月15日記