洋11-26

「ヒア アフター」
    

                  2011(平成23)年2月26日鑑賞<TOHOシネマズ梅田>

監督・製作・音楽:クリント・イーストウッド
ジョージ(霊能者)/マット・デイモン
マリー・ルレ(女性ジャーナリスト)/セシル・ドゥ・フランス
ビリー(ジョージの兄)/ジェイ・モーア
メラニー(料理教室の女性)/ブライス・ダラス・ハワード
マーカス(双子の弟)/ジョージ・マクラレン
ジェイソン(双子の兄)/フランキー・マクラレン
ルソー博士/マルト・ケラー
ディディエ(プロデューサー、マリーの恋人)/ティエリー・ヌーヴィック
2010年・アメリカ映画・129分
配給/ワーナー・ブラザース映画

<これはパニック映画?いや、そんなはずは・・・>
 映画を観るには、事前情報があった方がいい場合と無い方がいい場合がある。また、たまたま事前情報をもらう時もあれば、もらっても忙しくて目を通せない時もある。私は試写室で観る時は当然試写の案内状をもらっているので事前に資料を整理するし、上映直前にはプレスシートにも目を通すから、これから観る映画の事前情報をつかんでいることが多い。しかし、試写室で見逃した映画については予告編を見ているだけで事前に調べていないケースがあるし、パンフレットも鑑賞後に買うことが多い。本作はまさにそれ。
 クリント・イーストウッド監督作品だから試写の案内がくれば当然観ているはずだが、本作については何らかの手違いで見逃したか日程の都合でどうしても試写室へ行けなかったらしい。予告編で見た大津波が押し寄せてくるシーンと『ヒア アフター』というタイトルから考えると、本作は大パニック映画?『インデペンデンス・デイ』(96年)や『デイ・アフター・トゥモロー』(04年)(『シネマルーム4』84頁参照)などのドイツ人監督のローランド・エメリッヒはパニック映画の大家だが、クリント・イーストウッド監督は違うはず。ましてや年齢が80歳にもなって『グラン・トリノ』(08年)ではあんなに人生を達観したような映画をつくっていた(『シネマルーム23』48頁参照)のに、今さらエンタメ色満載のパニック映画に興味はないはず。そう思っているとやっぱり・・・。私を含む日本人の英語力では『ヒア アフター』というタイトルの意味を十分理解できないのは仕方ないが、それならそれで鑑賞前に英和辞書でその意味を調べておかなければ・・・。

<「あっち」は4つ、「こっち」は3つの物語が・・・>
 2月28日に発表された第83回アカデミー賞レースは、助演男優、助演女優賞こそ『ザ・ファイター』(10年)のクリスチャン・ベールとメリッサ・レオが受賞したが、作品賞、監督賞、主演男優賞、オリジナル脚本賞を『英国王のスピーチ』(10年)が受賞した。そんな状況下で思い出したのは、2007年のアカデミー賞レースで、「作品賞・監督賞ともマーティン・スコセッシ監督の『ディパーテッド』に敗れたものの、テーマの奥深さと問題提起の時代的タイムリーさではこちらの方が上・・・?」と私が書いたアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の『バベル』(06年)(『シネマルーム14』340頁参照)。
 「バベルの塔」は「ノアの方舟」とともに旧約聖書の「創世記」で有名な物語だが、『バベル』はその「バベルの塔」をテーマとして4つの物語が同時並行的に進行していく映画だった。ちなみにこれには日本から菊地凛子と役所広司が出演し、菊地凛子がアカデミー賞助演女優賞にノミネートされた。しかしこのスタイルでは、俳優の魅力は4分の1のウエイトでしか発揮できないから賞レースには不利?
 それはともかく、『バベル』は4つの物語だったが、本作は3つの物語が同時並行的に進んでいく。そして、その(統一)テーマは「ヒア アフター」つまり「来世」だ。人間なら誰でも一度は「死んだらどうなるの?」と考えたことがあるはずだが、クリント・イーストウッド監督も80歳を迎えるとそんなテーマに興味を?

<第1の物語は、臨死体験から>
 映画冒頭、東南アジアのリゾート地で恋人との休日を楽しんでいるフランス人の女性ジャーナリスト、マリー・ルレ(セシル・ドゥ・フランス)の姿が登場する。この恋人は同じTV局のプロデューサー、ディディエ(ティエリー・ヌーヴィック)らしいから、やっぱりフランスは自由恋愛の国?それはともかく、ホテルのチェックアウトを済ませ、おみやげを購入し帰国しようとしたその日の朝、このリゾート地を襲ったのが大津波。なるほど、突然こんな猛スピードで津波が襲ってくれば、1つの町など一気に飲み込まれてしまうのは当然。まずは、その迫力を楽しみたい(?)が、ここでクリント・イーストウッド監督が描きたかったのはその恐怖ではなく、マリーの臨死体験らしい。映画は便利な芸術だから死後の世界でも何でも自由にスクリーン上に描くことができるが、リアリストのクリント・イーストウッド監督が描くマリーが体験した臨死体験とは?マリーの頭の中のシーン(?)は何度か登場するが、それはかなり抑制の効いたものだからその解釈は難しい。

<第2の物語、霊能者は?>
 第2の物語の主人公である、霊能者として死者との対話ができるというジョージ(マット・デイモン)の場合、クリント・イーストウッド監督はもう一歩ミステリアスな世界に踏み込んだ映像を見せてくれる。そもそも、手を触れただけでピッと電気が走って(?)ジョージの頭の中に死者の姿が登場し、死者とのさまざまな対話ができるなどという話を信じられるのは、インド人の監督M・ナイト・シャマランくらい?ジョージは映画の中で子供の時の病気を治療する中でそういう能力を身につけたと説明しているが、そんな話をあなたは信じることができる?
 兄のビリー(ジェイ・モーア)は、ひょんなことから授かった弟ジョージのそんな能力を最大限利用し金もうけをしたいらしいが、今のジョージはそれを才能とは考えておらず、逆に重荷と考えているようだ。マット・デイモンは本作で『ボーン』シリーズで見せる筋肉ムキムキぶりではなく、自らのそんな「能力」におびえ、何とか静かに暮らしたいと願う男を静かに熱演している。

<第3の物語、双子の兄弟は?>
 第1の物語の主人公である女性ジャーナリスト、マリーの華やかな職場はフランスのパリ。そして、第2の物語の主人公であるジョージが霊能者としての特技から逃避するかのように、今肉体労働に従事しているのは、サンフランシスコの工場。しかして、第3はロンドンでちょっとワケありかつ問題ありの母親と一緒に暮らしている双子の兄弟の物語だ。兄のジェイソン(フランキー・マクラレン)と弟のマーカス(ジョージ・マクラレン)は母親の留守中仲良く過ごしていたが、この母親ではまともな子育ては難しそうだ。ある日、いろいろな偶然が重なる中で兄のジェイソンを交通事故で失ったマーカスは、薬物治療を余儀なくされている母親から切り離されて里親の下に預けられることになったが、こりゃとても耐えられない事態。そんな中、マーカスは子供ながらにインターネットを駆使して、死者と話すことができる霊能者を探し出し、片っ端から訪ね歩いていったが・・・。
 19世紀末のウィーンを舞台に「幻影の中に事実がある!」をテーマとして展開された『幻影師 アイゼンハイム』(06年)では、主人公は死者との対話を実現させていた(『シネマルーム20』96頁参照)が、そんなことができるのはイリュージョンの世界だけ?したがって、マーカスがいくらあちこちの霊能者を訪ね歩いても、その結果は不満足なものばかりだったのは当然。そんな状況下、古いウェブサイトを調べたことによって顔までしっかり覚えている霊能者ジョージと、ロンドンでめぐり会うことができたら・・・。

<あの朗読は?あれでディケンズとわかるの?>
 1957年から2008年まで51年間も続く長寿番組となった森繁久彌と加藤道子の朗読によるラジオ番組『日曜名作座』は、中学生時代の私の大好きなラジオ番組だった。ことほど左様に私は中学・高校時代はラジオ漬けだったし、大学での学生運動時代もラジオが最大の親友だった。他方、落語を聞くのが大好きな私の友人は、寝る時いつもそのCDを流していたらしい。本作には工場での肉体労働に疲れたジョージがベッドに入って眠る時いつもCDで朗読を聞いているシーンが登場するが、あれは一体何の朗読?
 19世紀のイギリスにおける大作家チャールズ・ディケンズの位置は、日本で言えばさしずめ島崎藤村や夏目漱石?それはよくわからないが、そんなシーンを見て、あの朗読がディケンズの作品だとわかる人は相当な文学通だろう。もちろん、私にはそれはサッパリわからなかったが、映画はクライマックス(?)に向けて、兄ビリーの企みを拒否したジョージがディケンズ三昧の旅を楽しむべくロンドンへ旅立つシーンが登場する。ツアー客に混じってガイド嬢の質問に一人答えているジョージの姿を見ると、こりゃかなりのディケンズ通?
 ジョージがそれほどのディケンズ通だったからこそ、ロンドンのブックフェアで『ヒア アフター』を出版したマリーにめぐり会え、心を通わすことができたのだろうが、後半からクライマックスに向けてのそんな展開をあなたもディケンズと共に・・・。

<ブックフェアへの参加は、著者最高の喜び!>
 本来何のつながりもない三者三様の物語を結ぶ本作のキーワードは、もちろん「ヒア アフター」。そして、それが1つに集約されていくのは、ロンドンにある広大なアレキサンドラ・パレスを使って設営されたという華やかなブックフェア会場だ。ジャーナリストとしてエリートコースを歩んでいたはずのマリーはあの日の臨死体験を境として人が変わったようになってしまったから、これには恋人のディディエも大困惑。さらに、新進気鋭の女性ジャーナリストらしくミッテラン大統領をネタにした出版を期待していた出版社は、受け取った原稿の内容がえらく暗いうえ、タイトルが『ヒア アフター』だったから、こちらも大困惑。これではとても出版は無理!一度はそう宣言したが、捨てる神あれば拾う神もいるものだ。
 私は日中バイリンガル作家、毛丹青氏のプロデュースによって2009年に私のはじめての中国語の本である『取景中国』を上海文芸出版社から出版し、8月には上海書城で開催されたブックフェアに『取景中国』の著者として参加した。広大な会場内の一角には私の本を紹介するためのブースが用意され、そこに設営されたイスには既に数十人の観客が。そこで私は本書出版の経緯を説明し、本書の意義を語った(もちろん通訳つきの日本語で)が、これは私にとってホントにすばらしい体験となった。しかして、本作にみるロンドンのブックフェアにおけるマリーの姿は、本の購入者にサインしている姿を含めて上海書城でのあの時の私にそっくり?
 それはあくまで私の勝手な感慨だが、本作のポイントの第1は、このブックフェア会場でジョージとマリーがはじめて出会い握手したことにある。この時2人は互いに何を感じ取ったのだろうか?そして第2のポイントは、そんな2人の様子を近くで見ていたマーカスがストーカーのようにジョージをつけ回し、霊能者としてのジョージの能力を使って兄ジェイソンと対話ができるのかどうかということだ。ブックフェア会場が映画のクライマックスシーンとして使われるのは多分本作がはじめてだろうが、上海書城でのブックフェア体験をもつ私にとっては、そんなクライマックスに何とも言えない親近感が・・・。

<この開放式的結尾(開放型の結末)を、どう解釈?>
 2010年10月1日から始まった水野衛子氏を講師とするNHKラジオ講座・まいにち中国語・応用編『映画で身につく!応用会話』は、霍建起(フォ・ジェンチイ)監督の『初恋の想い出(情人結)』(05年)(『シネマルーム21』117頁参照)を取りあげた。去る2月25日、その最終回となった「シーン40」では、「今日の話題」のコーナーで映画のラストシーンをテーマとして取り上げ、『初恋の想い出』のラストシーンが開放式的結尾(開放型の結末)になっていることを論じた。
 「中国版ロミオとジュリエット」と呼ばれるこの映画のラストシーンは、既にいい年になってしまった、かつての恋人である陸毅(ルー・イー)演ずる候嘉(ホウ・ジア)と趙薇(ヴィッキー・チャオ)演ずる屈然(チー・ラン)がバレンタインデー(情人節)の2月14日にウェディング写真を撮るシーンで終了するが、そのシーンの解釈は人それぞれ。まさに、開放式的結尾(開放型の結末)なのだ。しかして、クリント・イーストウッド監督の本作は?
 マーカスはジョージの尽力によって死亡した兄ジェイソンとの語らいを果たし、ジョージとマリーは今、仲良しになっている。映画は「ヒア アフター」をキーワードとして三人三様の悩みを抱えた人生を描いてきたが、これにて一見落着?ハッピーエンド?そう甘くはないだろうが、さて本作にみる開放式的結尾(開放型の結末)をあなたはどう解釈?
                               2011(平成23)年3月1日記