洋11-115
「ラビット・ホール」 ![]()
![]()
![]()
2011(平成23)年11月23日鑑賞<シネ・リーブル梅田>
監督:ジョン・キャメロン・ミッチェル
ベッカ・コーベット(4歳の1人息子を失った母親)/ニコール・キッドマン
ハウイー・コーベット(ベッカの夫)/アーロン・エッカート
ナット(ベッカの母親)/ダイアン・ウィースト
ギャビー(グループセラピーに参加する女性)/サンドラ・オー
イジー(ベッカの妹)/タミー・ブランチャード
ジェイソン(交通事故加害者の高校生)/マイルズ・テラー
2010年・アメリカ映画・92分
配給/ロングライド
<交通事故の悲劇を、こんな視点から>
私の親友である映画監督の塩屋俊氏の『0(ゼロ)からの風』(07年)は、最愛の1人息子を失った母親が業務上過失致死傷罪の加害者の罪の軽さに驚き、以降加害者の厳罰化を求め、危険運転致死傷罪の立法化に邁進する姿を描いた問題提起作。それを熱演したのが、2011年4月に55歳で亡くなった元キャンディーズのスーちゃんこと田中好子だ。また、警察の捜査の甘さに業を煮やした被害者の父親が自力調査に乗り出し弁護士に依頼したところ、実はその弁護士がひき逃げ犯だったという悲劇の連鎖をアメリカ的に描いた映画が『帰らない日々』(07年)(『シネマルーム20』133頁参照)だった。
それに対して本作は、8カ月前に4歳の1人息子ダニーを交通事故で失ったニコール・キッドマン扮する母親ベッカ・コーベットの喪失と再生を描く物語。同じ交通事故の悲劇でも、視点が変われば映画は全く違うものになるわけだ。
<こんな生活も、1人息子が亡くなれば・・・>
ベッカの夫ハウイー・コーベット(アーロン・エッカート)の仕事は知らないが、夫婦が住んでいる郊外の家の敷地は3000㎡もあるらしい。また2人とも専用の高級車に乗っているから、今年の秋に突如始まったウォール街の「格差反対デモ」参加の若者たちからみれば、この夫婦は攻撃すべきターゲット?そのうえ本作にみるハウイーは、自分の悲しみは時々ダニーの生前の姿を記録したビデオを見ることによって癒しながら妻の喪失感に寄り添い、何とかベッカが立ち直れるよう懸命に協力しているから、こりゃ理想的な亭主。
ところが、ベッカはお隣さんからの食事の招待を拒否したり、妹のイジー(タミー・ブランチャード)が最近付き合い始めたミュージシャンの男の子供を身ごもったと聞いても率直に喜べないらしいから、その喪失感はかなりのものだ。さらに、愛する身近な者に先立たれた人々のグループ・セラピーに参加しても、「娘が死んだのは神の御心」と語る参加者に対して辛らつな言葉を浴びせたり、初老の母親ナット(ダイアン・ウィースト)の家に立ち寄っても全然素直になれないから、始末が悪い。ニコール・キッドマンは私の大好きな女優で、とりわけ『ムーラン・ルージュ』(01年)(『シネマルーム1』17頁参照)や『コールドマウンテン』(03年)(『シネマルーム4』139頁参照)には大感激したが、本作にみるニコール・キッドマンは少しわがままが過ぎる?
<この行動も、あの行動も不可解!>
私は男だし弁護士稼業を37年間もやっているから、気持の割り切りは得意な方。3・11東日本大震災から8カ月余が経過した今も復興は全然進んでいないが、仮設などの新しい生活環境の下でも喪失感が少しずつ改善している被災者もいるはずだ。
悲しみを乗り越えて前向きに生きていかなければいけないと考えているハウイーは、ベッカに対して2人目の子供を作ろうとモーションをかけたが、それに対するベッカの反応は私には不可解!また、子供の思い出の詰まったこのわが家を売り払おうと提案するのが不可解なら、さらに不可解で後日ハウイーの怒りを買うことになったのが、ある日偶然見かけた交通事故の加害者である高校生のジェイソン(マイルズ・テラー)にベッカが近寄っていったこと。『0(ゼロ)からの風』の田中好子扮する母親は飲酒、暴走運転の加害者に対して怒りの気持を露わにし、厳重処罰を求めたが、ベッカはあの日の事故をずっと気にかけていたというジェイソンに対して「いいのよ。あなたの気持ちはわかったわ」とやさしい言葉をかけたが、こりゃ一体なぜ?そのうえ、当初のご対面こそぎこちなかったが、その後くり返される公園での2人のデート風景(?)をみると、ベッカにとってここが唯一の心の安らぎの場になっているように思えるから不可解だ。
さらにスーパー内でお菓子を買ってくれとねだるわが子に厳しい態度をとる母親を見て、ベッカが文句をつけたうえ、その頬を張り飛ばすという行為は誰がどう考えてもベッカの方に非があることは明らか。ここまでいくと、こりゃ一種の病気では、と思えるほどだ。ジェイソンが自分が書いたコミックを無神経にも(?)ベッカの自宅に届けにきた時、ハウイーが驚き怒ったのは当然。なぜ、ベッカはあんなこんなの不可解な行動を次々と・・・。
<時間が解決?それとも言葉が解決?>
本作はピュリツァー賞に輝く傑作戯曲にニコール・キッドマンが惚れこみ、自らプロデューサーとなって映画化したもので、彼女にとっては『めぐりあう時間たち』以来8年ぶりのアカデミー賞主演女優賞ノミネート作となったとのこと。しかし、映画冒頭から延々と展開されるのは、喪失感を抱えたまま立ち直れず周囲に問題を引き起こしてばかりのベッカの姿。そればかり見ていると、いい加減うんざりしてくるが、さてベッカの立ち直りは?
それは所詮時間の経過を待つしかないのかもしれないが、丁寧かつ細やかに描かれ続ける喪失感から逃れられないベッカの行動が、後半からラストにかけて再生に切り替わっていくのは、ベッカの母親ナットが述べる珠玉の言葉のため。さて、その言葉とは?
<こんな言葉の重みをしっかりと・・・>
ベッカの母親であるナットはベッカの兄にあたる長男アーサーを薬物の過剰摂取で11年前に失ったという経験を持っていたから、その喪失感からの立ち直りと再生の体験はベッカへのいいアドバイスになるはず。ところが、前半から後半にかけてのベッカには母親のアドバイスを受け入れようとする気持が全くないから、そのアドバイスは全く無意味。しかし、夫や妹そして母親たちとあれやこれやの騒動をくり返す中、少しは気持の持ちようが変わってくるとベッカは・・・。
そんな変化のあったベッカだからこそ、「この11年間、悲しみはずっと消えない。でも変化はするわ」「どう変わるの?」「・・・・・・何というか、重さが変わるの。のしかかっていた重い大きな石が、ポケットの小石に変わる」という母親との会話が今、スッキリとベッカの胸の中に。そんな中で静かに迎える本作のラストシーンは、手と手をとり合い握り合うハウイーとベッカ夫婦の姿だが、さてここまで到達した中でベッカの心の再生は?
2011(平成23)年11月28日記