日本映画03年No6
「壬生義士伝」
2003(平成15)年3月4日鑑賞
(滝田洋二郎監督/中井貴一/佐藤浩市/三宅裕司)(配給:松竹)
<直木賞作家 浅田次郎>
原作は、単行本、文庫本あわせて80万部を突破したという浅田次郎原作のベストセラー『壬生義士伝』。『鉄道員(ぽっぽや)』で直木賞を受賞した、今が旬の人気作家だ。この『壬生義士伝』は、既に渡辺謙主演でテレビドラマ化されており、日本人にはかなりお馴染みの物語だ。
<薩長と新選組、そして主人公 吉村貫一郎>
北辰一刀流の免許皆伝の腕をもつ新選組隊士、吉村貫一郎(中井貴一)。彼は北の国は盛岡(岩手県)にある南部藩士。妻子を盛岡に残し、脱藩してきた人物だ。幕末の時代の主役となった藩は、薩摩藩と長州藩だし、その主役としての登場人物は西郷隆盛、大久保利通、桂小五郎、そして坂本竜馬と決まっている。これに対峙して、徳川幕府の先兵として京都を守る新選組の主役も近藤勇、土方歳三、沖田総司に決まっており、吉村貫一郎などという名前は聞いたことがない。そう、吉村貫一郎とは作家浅田次郎が作り出した架空の人物なのだ。勤皇の志士として京都で働く薩摩、長州そして土佐からの脱藩浪人たちの活躍ぶりは、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』や『新選組血風録』をはじめとしてワクワクする物語がたくさんあるが、南部藩から脱藩して尊皇攘夷のために京都で働くという武士はあまり聞いたことがない。
そもそも新選組とは、時代の激動を見込んで、どちらかというと今の状況ではなかなか食っていけない連中(下級武士や不満分子)が一旗挙げようとして集まった組織のはずだ。主人公吉村の南部藩脱藩、そして新選組への入隊には大きな理由があり、人間のドラマ、家族のドラマがあった。この映画がその部分に焦点をあてて描くシーンは、人間の真実を描ききっているため、本当に涙がとまらない。
<吉村貫一郎に対置される人物 斎藤一>
新選組の「ひねくれ者」である斎藤先生こと斎藤一を演ずるのは佐藤浩市。彼は左利きの剣の使い手だが、人間の善意や愛情などを信じることができず、ただ「死に場所」を見つけるために生きているような人物だ。そして新選組の局長近藤勇に対しても、「こいつは俗物だ」と断定している。そんな斎藤先生だから、即座に吉村貫一郎の剣の腕前を見抜き、この人物に注目していた。にもかかわらず、吉村がペコペコしながら働いて給料をもらっている姿や、新入隊士歓迎の酒席で、純真、純朴に御国自慢をしたり、妻子自慢をしている姿を見ると無性に腹が立ってくる。そりゃそうだろう。もっとも、そこで、「ここ1ヶ月ほど人を斬ってないから」という理由で、いきなり吉村に斬りつけてくるのは無茶というものだが・・・。
しかし、そんな斎藤先生も、次第に、吉村という男の純真さだけではなく、生きていくことの価値の大きさと「義」に生きるホンモノのさむらいとしての姿に惹かれ、感動を覚えていくことになる。
<さむらい、義、そしていのち、家族>
さむらいとか義(士)という言葉は今の日本では完全に「死語」となってしまっている。今頃こんな言葉を語っていると、「あいつは右翼か!」と言われてしまうだろう。しかし、この物語は本当にこの言葉の価値を考えさせてくれるいい映画だ。そして、この2つの言葉が持つ価値とは矛盾すると一般に考えられている言葉が、「いのち」や「家族」だ。つまり、いのちを大切だと思ったり、家族を大切だと思うことは、それに執着することにつながるため、「さむらい」としての生き方や「義」を貫くことが出来なくなると考えられているわけだ。しかし、本当はそうではない。「命を捨てる」とか、「家族を捨てる」などと簡単に言うのは、虚勢にすぎない。「守銭奴」と言われても、「お金」は盛岡に残した愛する妻子の生活のために不可欠なものであり、働いてお金を稼ぐことは吉村貫一郎の生きていく価値そのものであった。そして南部藩で若者たちに説いてきた南部武士としての生き方は、新選組や徳川幕府がどんなに傾いてこようとも、変えることのできないものだった。こんな吉村貫一郎という人物像を中井貴一は見事に演じている。
<涙せずにはいられない、最後の独白>
薩長軍に敗れた新選組は大坂城に逃げ戻ったが、傷つき、ボロボロになった刀を杖にしながら、一人吉村は南部藩邸に戻ってきた。それを叱りつける吉村の幼なじみの親友大野次郎右衛門(三宅裕司)。彼はメカケ腹だったが、世継ぎが死んだために大野家に入って家老となり、今や幕末の時代の南部藩の命運を握る立場となっていた。そして、大野は「せめて武士の情けだ。」として、吉村に対して切腹を命じ、「そんなボロボロの刀では腹も切れないだろう」と言って、自分の刀を吉村に渡した。そして南部の米のおにぎりも・・・。
大野から一室を与えられた吉村は、雪が降るのを見つめながら、妻しづや、息子嘉一郎たちに語りかける。盛岡なまりで多少わかりにくいところもあるが、中井貴一が一人静かに語り続けるこの長いシ−ンは圧巻で感動的だ。テレビでの渡辺謙の芝居と同じようなパタ−ンだが、とにかく涙が止まらない。
<長男嘉一郎もさむらいだった>
テレビドラマでは、南部藩が薩長に屈服した後、吉村の長男嘉一郎は、函館の五稜郭に入り、新選組の副長であった土方歳三たちと共に戦う姿が描かれていた。しかしこの映画では、嘉一郎がその親友である家老大野の息子千明と別れを告げるシ−ンしか描かれていない。しかしまた、このシ−ンが泣けて仕方がない。南部藩も降参し、藩士はみな屈服しているのに、「なぜお前だけが・・・」という千明に対して、嘉一郎は「俺も南部のさむらいだから」と答える。そして「おにいちゃん行かないで・・・」と泣きじゃくる幼い妹を残して、一人「さむらい」として、「義」のために戦地へ赴いていくわけだ。
<総評>
大河ドラマの原作をよく2時間半にまとめて作っており、しかもとにかく泣かせる場面が多い。庄内方言(山形県 鶴岡市)の「たそがれ清兵衛」と並ぶこの映画での南部方言は、聞き取りにくいが、その反面、北の国の貧しさがよく分かるし、田舎の純朴さが胸を打つ。
共に2世俳優の中井貴一と佐藤浩市はさすがの演技。日本の時代劇も捨てたものではない。自信をもっていいモノをどんどん作ってもらいたい。2005年には司馬遼太郎の『坂の上の雲』がテレビドラマ化されると聞いているが、この作品などは是非映画化してもらいたいものだ。
2003(平成15)年3月5日記